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【20周年特集 Vol.1】ダーツライブ誕生秘話:開発者が語るダーツライブへの想い

今から20年前、2003年11月にダーツライブが誕生しました。
ダーツライブ20周年を記念して、社員が語るそれぞれの想いをお送りします。
Vol.1では、創業当時ダーツライブを企画開発した3名の社員が、ダーツをオンライン化するというプロジェクトに挑んだ苦労や裏話、そして生まれたダーツライブに込めた想いを語ります。

Vol.2「ブームではなく文化へ」ダーツライブをヒットに導いた社員たちの想い

Vol.3 20年経っても受け継がれる想い Z世代が語るダーツライブ

プロフィール

野田さん
野田さん

1993年に株式会社セガ・エンタープライゼスに入社。ダーツライブの企画ディレクションを担当。現在はクリエイティブ本部長を務める。レーティングは4(酒レーティングは18!)。趣味は南の島巡り。好きなゲームはプログラムを担当したクレイジータクシー1。

山本さん
山本さん

1993年株式会社セガ・エンタープライゼスに入社。ダーツライブのOS組み込みやサーバー関係を担当。現在はプロダクションマネジメント部の部長を務める。レーティングは6ぐらい。趣味は海外旅行とラノベを読むこと。過去にテーブルトークRPGやカードゲームにハマる。

越沼さん
越沼さん

2000年に株式会社セガ・エンタープライゼスに入社。ADとしてダーツライブとタッチライブの企画を担当。現在はジョブチェンジし広報部に所属。レーティングは秘密。趣味はDIY。



ダーツライブが誕生される前の日本のダーツ事情はどうだったのでしょうか。 

野田:ダーツライブの開発が始まったのが2001年12月頃。その頃、いわゆるダーツバーと呼ばれる店はほとんどなく、飲み屋さんにソフトダーツマシンが置いてあるという感じでしたね。 マシンの台数は国内で1000台に到達していない程度。約9割はアメリカで開発されたメダリスト社のマシン(※1)でした。 

山本:当時のプレイヤーのレベルはハットトリック(※2)が出たら大騒ぎするくらい。カウントアップでは500点いったら「すげー!」みたいな。 

野田:今のプレイヤーのうまさは異常ですよね(笑) 

※1 メダリスト社のマシン:1980年代にアメリカで開発された自動計算ができるソフトダーツマシン
※2 ハットトリック:1ラウンドで3本ともブルに入ること


どのようにしてダーツライブの企画が立ち上がったのですか? 

野田:私たちはセガの第3AM研究開発部というゲームの開発をする部署にいました。その部署が会社化してヒットメーカーという会社になり、そこの会社の社長である小口さんのアイデアで企画が立ち上がりました。 

山本:小口さんが当時ダーツにハマっていて毎日のようにダーツを投げに行っていたんです。そしてある日突然「ダーツをネットワーク化するぞ!」と、社長直々の肝いりのプロジェクトで始まりました。 

野田:当時のダーツマシンは1ゲーム毎のスタッツの自動計算はできたものの、大会に出るためには自分でスタッツを紙に書いてレーティングを算出しないといけなかったのです。バーでお酒を飲みながら紙に計算するのはすごく面倒で。グラスの水滴でぐちゃぐちゃになることも多々ありました。そこで「ICカード認証し、ネットワークを通じて記録できるようになったらいいのに」と思いついたアイデアがダーツライブの原点になりました。

越沼:当時、小口さんを中心に周りの若手の先輩たちがダーツにハマっているというのは耳にしていました。でも「え?ダーツ?本当にプロジェクト化するの!?」ってびっくりしましたね。 

山本:セガはゲームの会社なので、周りの社員にも「あの人たちゲームも作らずダーツで遊んでる」という目で見られていたと思います。オフィスの端っこのほうで「邪魔しないからね、大丈夫だよ!」という感じで開発していました(笑) 

野田:そうそう、開発中にダーツを投げると打撃音がするので周りに響いて迷惑がかかるので毛布を盤面裏に入れて音が出ないようにしてましたね(笑) 


1番最初のダーツライブは、メダリストのマシンにキットをつけてネットワーク化したマシンでしたよね。なぜ1からマシンを作らなかったのでしょうか。 

野田:当時僕たちはゲームの開発をしていましたが、ダーツのノウハウは持っていません。大会もプロモーションもできない。そして市場にはメダリストのマシンが9割。そんな状態だったので、メダリストと一緒に合弁会社を作って日本市場を育ててきましょう、ということで株式会社ダーツライブが立ち上がりました。 

山本:市場にあるマシンをリプレイスするのも難しいし、すでに置いてあるメダリストのマシンにコンバージョンキットをつけることなりました。 コンバージョンキット、通称「弁当箱」ね(笑)最終的に電源やらPCやらくっつけたら小型冷蔵庫サイズになったけど、みんなは弁当箱って呼んでました。 このコンバージョンキットを既存のマシンにつけるとネットワークにつながって、ダーツライブサービスで遊べるようになりました。

野田:あとは、個人事業主のお店が圧倒的に多かったので、とにかく無駄を省いてできるだけ安く作ろうという思いがありました。 

山本:すでにお店にあるのにもう一台買ってもらおうっていうのは難しい。低価格で作ってすでにお店にあるマシンに付けてもらおうとなりました。 

▲ダーツマシンの右に付いているのが通称「弁当箱」のコンバージョンキット


企画・開発するうえで苦労したことは何でしょうか。 

野田:小口さんが企画出身なのでいろいろなダメ出しを食らったことかな。「面白くない」とか「 ああしたほうがいい」とか。そこはさんざん苦労しましたね。いっぱい企画を出していっぱいボツ。しまいには「クリケットをこえるゲームを考えろ」というお題。これが一番苦労しました。 

越沼:大変なことだらけでしたね。でも次の日会社行くと必ず打開策があったんです。 
「あーもうこれがだめだー!」となっても、先輩たちの「じゃあこうしよう!」とフローを転換していくパワーを目の当たりにしました。新しい事業という部分では、悩むところは多かったのですが、少ないメンバーだったので全員で集まって考えてはその都度話し合って解決策を生み出していきましたね。 

山本:3~4人しかいないので全部自力でやらないといけなかったんですよ。どうやって請求書って出すんだろう?振り込み確認ってどうするの?っていうところから自力で(笑) 

越沼:人が少ないから、新人だった私もビジネスモデルの話まで一緒に考えたり採用してもらったり。ゲームも作って、マシンも準備して、ビジネスモデルも考えて、一つ一つを作ってきたスタートアップでしたが、皆、苦労を超える楽しさで乗り越えてきていたように思います。


一番こだわったことは何ですか。 

野田:こだわったことはたくさんありますよ。まずはブル音。メダリストのブル音が最強に良かったからそこを壊しちゃいけないというのがあって。そこは川口さん(※3)とめちゃくちゃこだわりましたね。アワードもそうです。スリー・イン・ア・ベッド(※4)やホワイトホース(※5)なんか当時はなかなか出ないので、出た時はものすごくうれしいですよね。「見て見て!」って言わせるような尺や音をこだわりました。 

山本:僕はお客さん同士のコミュニケーションをどう作るか、みたいなところはこだわりました。ダーツバーってなんか分からないけど、いつもいる人いるじゃない?(笑)画面に名前が出てると「あの人ああいう名前なんだね」ってわかるとか。いまどこみたいに、「私ここにいるよ」と発信を自動的にできるとか。めんどくさいコミュニケーションじゃなくて、自然なものを目指しました。

※3 川口さん:セガのサウンドクリエイター。通称Hiro師匠
※4 スリー・イン・ア・ベッド:クリケットで3本とも同じエリアのダブルかトリプルに入ること
※5 ホワイトホース:クリケットで3本異なるダブルかトリプルのエリアに入ること


ダーツライブがヒットした理由はなんだと思いますか。 

野田:やっぱりコミュニティを重要視したことがヒットにつながったと思います。ダーツってそもそも対戦して遊ぶものだし、そこはやっぱりコミュニティを意識したコンテンツを作りました。 

山本:価格設定が良かったこともヒットの要因のひとつだと思っています。あとは、やっぱり開発してた僕ら自身が、みんなが好きなことを一生懸命やっていましたよね。自分たちが楽しいと思うものを作っていったことが良かったんだと思います。 

越沼:「ダーツ×〇〇」の掛け合わせが良かったんだろうと思っています。ダーツという遊びをどうやったら、どれだけ魅力的なものにできるのかみたいな部分がうまくいったんだと思う。 
ダーツだけでもダメだったし、そこにどれだけのものを乗っけるかというところでアイデアをどんどん導入できたってところが要因かなと。 


20年を振り返ってみて一番印象的なことは何ですか。 

野田:渋谷の大型ダーツバーで行ったダーツライブお披露目のことですかね。約1年開発を行い、やっとオンラインでのダーツをお披露目できる日。なのに直前でネットワークにつながらなくなったという伝説の事件です。あの時の焦りと言ったら…。山本さんがひらめいて渋谷の電気屋にルーター買いに行って、お披露目5分前にやっとネットワークがつながったんですよね。あの時のことは本当に印象に残っています。鮮明に覚えてますね。夜どっと疲れました。 

山本:僕も一番はそれです。トラウマですよね(笑) 

越沼:私もお披露目の日のことはよく覚えてます。私は現地の事件のことは会社で聞いていました。最後にネットワークにつながって「お客さん来てるよ」と聞いたときは本当にほっとして、社内にいた人と「ああ、よかったね」と喜び合いました。 

山本:もちろんネットワークのテストはしてたけど、現場って不思議なことが起きるんですよね。マシンを12台ネットワークにつないだのは初めてでした。あの時は本当にみんなパニくってたよね。 

野田:あとは、2006年に東京ビッグサイトで開催したダーツライブパーティーは感動しました。あれだけの人が自分たちが作ったもので遊んでいる光景は忘れられません。 

山本:最初のダーツライブパーティーはサーバーが止まったらどうしようって不安でした。だって、全部オンラインで100台動いてるんだよ、100台。しかもオールナイトで。ここで止まったらもうつるしあげですよね(笑) 

▲約5000人のダーツファンが朝まで楽しんだイベント「ダーツライブパーティ」


自分たちが作ったものが20年経っても遊ばれていることについてどう思いますか。 

越沼:旅先で偶然「あっ、ここにもダーツライブある!」みたいなことがたまにあるんですが、開発時は想像できなかったですね。当時は、単純に面白いものを送り出したいという気持ちで携わっていましたが、こんなにも長くサービスが受け入れられているなんてすごいな、と改めて思います。


野田:本当に感謝ですよね。当初国内で1000台をいったら御の字、と言っていました。でも今や約7600台(※6)設置されているわけで。 
プロジェクト発足時は20年続くとか考えたこともなかったです。当時セガではゲームは長くて4~5年。短いと半年と言われていました。でも小口さんは「ダーツを30年続けるぞ!」と言っていて、まったくピンとこなかったんです。でももう30年もあと少し。そのころには還暦超えてますよ。 

山本:僕は、サーバーは一万台行く想定でしたよ。タイムスタンプは2038年まで持てばいいと思っていましたけど。とは言え20年は本当すごいよね。 

※6  2023年3月末時点


これからのダーツライブはどうなっていくと思いますか。 

野田:ダーツライブはネットワークを取り入れてダーツ業界、ユーザーに「!」を仕掛けた。 ダーツライブ2では盤面を光らせ初心者にもわかりやすくすることで更に「!」を仕掛けた。 
私が思うダーツライブは、最初は違和感を感じられるかもしれないが先々定着するような、ユーザーに常に「!」を仕掛けていくものであってほしいと思っています。 
この先、さまざまなスタッフが開発に携わっていくと思いますが、常に時代の先を行く「!」を仕掛けたものを取り入れて進化することと思います。 

山本:ダーツは基本のプラットフォームとして、そのうえにさらに遊びを構築できるようになっているのが望ましいんだろうなと思っています。 

越沼:常にその時流や空気感をとりこんで、 正当な進化を続けた”未来のダーツライブ”になっているのではと思います。ダーツという土台の核心は変わらないけれど、時にしたたかに時に大胆に変化をしながら、今とは全く予想のつかない形になって、しかしなお愛されるものになっていたら嬉しいです。


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